Page1:こんにちは。春の日ノートです。
こんにちは!春の日ボタンのみっちーです。
ホームページがリニューアルとなりました!!どどーん!デザイン一新で素敵なページになったでしょ?追加コーナーもあるので、どうぞお楽しみください!
さて、この『春の日ノート』も、その追加コーナーの一つです。
で、『春の日ノート』って何?って話なんですよ。まあ、実のところ、言いだしっぺの僕もこのコーナーのあり方やら明確な意図やらははっきり説明できないんですね。
ただ、ぼんやりと、本公演の台本よりはサクッと気軽にお披露目出来て、でもブログよりはもうちょっと長文の記事が書きたい、と。
思いついちゃったんですね。思いついちゃってボツになったネタなんて、数えたらキリがないほどあるけど、あ、これはホントにやりたいなぁ、という心の声に従っての見切り発車での船出です。
え?車なの?船なの?どっちなの?・・・さあ?
だから、このコーナーがどこに向かうのか、なんて未来はまったくもって未知数ですが、不定期更新、のんびりだらりと続けていけたらと思っていますので、どうぞ、お付き合いくださいませ。
さて、挨拶が終わったところで重要なことに気づいた。文体が「です・ます」調だと、ブログ記事と差別化出来てない!ということに今頃気づいてしまった。ので、ここから文体を変える。
え?さかのぼって最初から直せばいいのでは?ごもっとも。ただ、冒頭部分はご挨拶なので、これはこれで気に入っている。気に入ってしまっていてはなおしようがない。やっかいだ。うん。
先へ進めよう。春の日ノートPage1(記事をPageと数えることも今書きながら考えついた)では、「見切り発車」について触れたい。
なぜならば、今、まさに僕は見切り発車で記事を書いているからだ。一行先の展開も思い浮かばぬままに筆(まあタイプなのだが)を書き進めている。
本来ならば、テーマと付随するエピソード、それらをつなげて起承転結をしっかり想起してから書き始める、そういうものなのかもしれない。
しかし、一方で『書き始める』ことも重要なことだ。『最初の一筆』は稿を進める上でもっとも大きな難関であり、ならば、最大難関の難易度を下げるためにも、
前提作業とされる自分への課題・宿題・ノルマの一切を、この際、思い切って免除して『書き始める』ことで、稿を進めるモチベーションが飛躍的に向上することがある。
そう、今、僕はライターズハイだ。これはまさに『見切り発車』の効果だ。
もちろん、生命に関わる事項においては、見切り発車はすべきではない。経済的な損失だったり、人間関係の崩壊をまねく事項においても、同様だ。
しかし、本コーナーはそういった事項には一切該当しない。むしろ、『春の日ボタンとして本公演以外の方法で何かを発したい』という本コーナーの趣旨(というか動機)に素直に従うならば、
むしろ見切り発車は推奨される執筆手順なのかもしれない。
一方、見切り発車の最大の弱点が今、まさに露呈されようとしている。停車する方法がないことだ。ゴールが見えないことだ。
行き先を決めずに発車した車は、適当なパーキングも見つけられず、どこにハンドルを切ればいいのかも分からず、ゴールがどこかも分からない。困った。・・・ん?まて。
ゴールが分からないことはそんなに困ったことだろうか?というより、この世の大部分においてはゴールなど分からないし、むしろゴールが存在しないことすら多々あるはずだ。
キチンと段取り、順序立てて「良い仕事」をすることも重要だが、答えもゴールも分からない、が始めてみることで目指す先が分かることだってたくさんある。
台所事情を露呈すべきか迷うが、春の日ボタンの脚本執筆においても、見切り発車は時に効力を発揮している。例えば、場面設定と登場人物のぼんやりした像だけの、
プロットとはいえない断片的アイディアも、見切り発車で書き始めることで次のセリフが呼び出され、キャラクターが肉付けされ、目指すゴールが見えてくる、ことがままある。
この執筆手順は、しっかりしたプロットがあってオチまでしっかり固まってから書き始めたエピソードよりも、ゆったりとした空気をまとった台本に仕上がりやすい。
つまり、見切り発車は『モチベーション』という効能だけではなく、『ふんわり仕上げ』という効果をまとった、表現方法の一つなのだ。
さて、右に左に怪しく揺れた本稿もなんとなくここまできたので、そろそろ稿を閉じようと思う。Page1からしてテーマが『見切り発車』な春の日ノートは行き先不明のまったくの見切り発車コーナーである。
本稿を最後まで読んでいただいた読者の方には説明するまでもないことだが。これからも気の向くままに『何かを書く』というコーナーとして、どうかお付き合いいただきたい。
ではまた。
[今日のまとめ?]
見切り発車はむしろ、しろ。命に関わらない限り。